グレーゾーン発達障害、「決める」と「終わらせる」

私は何かと決めるのが苦手な人間です。子どもの時は得意だったのに今は苦手とかそういうことではなく、振り返ってみれば昔から何かと決めるのに時間がかかっていたような気もします。それでも決めるのが苦手だなんて、これまで思ったこともありませんでした。

そもそも何かを実行に移すということだけでも私は時間がかかります。例えば、朝10時に買い物に行こうと朝8時に思ったとする。その為に準備を始めてだいたい家を出られるのが11時とかね、そんな日常です。もちろん10時に間に合わせる為に朝から全力で準備すれば絶対に間に合うんです、頭では分かっています。けれども、どういうわけか他のことをやってしまって、結果間に合わない。

それに加えて、それをする目的とか、本当にやらなくちゃいけない?とか、もしかしてやらなくてもいいんじゃない?とかそんなことを考え出すと前に進めません。「ほら、今日買い物に行かなくても死なないじゃん?」とか。そういう言い訳をしてやらない理由を探すのです。実際死にませんしね。このブログを書くという決断をする時もそうでした。「本当にやらなくてはいけないこと」は何なのか?分からない、自分の中であいまい、ということもあります。

それって本当にやるべきことなのかなって。「やりたくないこと=やらなくていいこと」とは一概に言えないけれど、そうばかりも言っていられない。分かっています。やりたくないからやらないなんてただの我儘でしょ、何甘えてんの?って誰しもが思うことです。特に仕事においては。

しかし私のようなグレーゾーンの人間にとって、もはやそういう感情はぐちゃぐちゃになっています。嫌なこともやってきたし、むしろ嫌なことばかりだった。我慢して我慢して・・・自分の感情が何かよく分からなくなっているので、自分がやりたくないことでも我慢してやらなくちゃいけないと思い込んでいる(それが人生でしょう)→結果、苦しい(人生ってそういうものでしょう)→積み重ねた我慢が限界に、という図式が繰り返されます。

生きていることは苦しむこと、が当たり前ではないんですよね。それが当たり前だっていうのはやっぱりちょっとおかしい。苦しむがデフォルトになっていると常に苦しんでいるんだからそりゃ頭がイカれます。じゃあ自分が楽しいと思えることって何だろうなんて考えると「はて?」と思ってあれ、私自分の好きなことも分からないなぁってなんか虚しくなります。

今更自分探しもないでしょうと正直思います。自分探しって何だよ!!と、自分探しを否定している部分もあります。生きてりゃ、それが自分ってもんだろうがと。だいたい20代前半で少し社会に働きに出て、「私って何だろう、本当の私って?」などと思い始め会社辞めてワーキングホリデーに行くとかね。そういう人よくいるでしょう?現代の若者にはあまりいないのかな?私が10代~20代のころにはよくいた気がします。実際何人かそういう人に出会いました。そして自分探しをする人を小ばかにする人もよくいますね。私の身近にもいます。そんな人に私は「私はそんな恥ずかしいことしていないよ~自分探しって、ねぇ?(笑)」という仮面をかぶりながら、一生懸命いまだに自分を探しております。もう40歳を超えてもいまだ私に出会えません。

一生「これだ」という正解にはたどり着けないかもしれない。というか正解なんてないですね、悟りとか?そういう境地でしょうかね。あえてあるとすれば、自分が「それでいいや」と思える「正解」を、あえてそうだと結論付けると言いましょうか。しかしそんなことはどうでもいいことですし、見つかっても見つからなくってもお腹はふくれないし、お金にもなりません。無駄です。時間の無駄です。くだらないことは考えずに一生懸命働けば良いのです。それが正しい大人というものです。それでも頭ではわかっているのに堂々めぐり。なぜって苦しいからです。どうしたらこの息詰まるような苦しさから逃れられるのか分からないんだけど、でも逃れたいと思うから。

そういうわけでいつまでたっても自分探しは進まないので「自分の特性探し」という方向に舵を切ることにしました。アスペルガーという言葉、発達障害という言葉を知ったのもつい最近のこと。これまでは「知的障害」「身体障害」といった大きな意味でしか障害ということを捉えていなかったけれど、どうもそれだけではなさそうだ。そしてそういう系の本を読んだり、ネットで調べてたりするとわんさか自分の特性を発見するんですねぇ。「あ、あたしこれじゃん」って。面白いように。

コミュニケーションも苦手だし、学生時代はクラスのはしっこにいるような人間だったし、友達の輪にもなじめず、いつも自分を否定しながら生きてきた。私のあこがれはいつの時代も「華やかな人」。私にはない光を浴びる能力、カリスマ性やスター性、リーダーシップ。しかしいくら憧れても努力して身に付くってものではない、さすがにそれはもう分かりました。悲しいかな、それらは持って生まれたもの。努力しろなんていう人もいるけれど、そうじゃないって言いたい。それと同じように私の特性も持って生まれたもので、脳の機能の問題であるなら、もうそれはいつまでもいやだいやだと子どものように否定するんじゃなくて認めて受け入れて生きていくしかないな、なんとかうまく自分とやっていくしかないなっていうのが最近の私の心境。

おそらく人生の半分位のところまではきたと思うんだけど、この先まだまだ長い!長すぎる!小学生位の時にはもう、何か違うって苦しみは始まっていましたので、もううんざり。いい加減自分を認めてあげないとこの先もずっと苦しいだけ。他人に認めてもらいたいなどと傲慢なことを言い出すときりがないので、せめて自分は、出来るだけ特性を明確にしてひとつひとつ認めてあげたいと思っています。

そんな私が今日、決めた=実行したこと。

水 着 を 買 っ た 。

人間が水着を買う理由、それは「泳ぐ」から。もちろん他にもいろいろとありましょう。世の中にはくそオシャレな水着もありますしね。今回の私が言うところの水着は競泳用水着。私の場合は、弱いカラダとメンタルを鍛えるためにジムに行って泳ぎなさいと夫に言われたから。やらされてる感はハンパない。いや、知ってます。誰かに何かを言われたとしても「やる」と決めて実際にやるのは自分なので、やると決めた時点でそれはもう自分の決断なのだと。知ってますって。

それでも別に泳がなくていいし、めんどくさいし、仮に今「泳ごう」と思ったところでしばらくすればプールに行かなくなるし。そうすると水着せっかく買っても着ないんじゃもったいない。あ、そもそも泳がなくていいじゃん?めんどくさいし。と前に進まない。それでもう数週間が経過。

もーーーう、疲れる。実際は何にも行動していないのに。というより行動していないから余計に疲れる。ということが分かってきました。行動をしないと。いや、しなくてもいいんだけどした方が何かやった気分になる。その方が自分を認めてあげられます。そういうわけで本日は水着を買いに、わざわざ都心へ出かけました。己の肉体を試着室の鏡の前にさらけ出し、着替え、その姿に若干めまいを覚えながらも数着の中から一番マシであったものに決めました。肉体へのあまりのコンプレックスから、悲鳴をあげ、試着室から飛び出して買わないという方へ逃げ出したくなったけれど、もう買うしかなかった。「買う」という決断=快挙。

買おうか。買わないといけないのか。買わなくてもいいんじゃないか。そんな思考の先はどうでもいいことで、結局大事なのは「とにかく決める」ってこと。「買わない」でもいいし、買うならなんでもいいから「買う」という行動でこの思考を終わらせる。もうそれは「着なかったら水着はムダになってしまう」という金銭的な問題にとどまらない。何かしらで決着を付けない限り、思考は止まらない。こーーーーんなくだらないことに脳内を堂々巡りさせて、何もせずに疲れ切っているなんて、人生がもったいなすぎる。ということです。水着を買うか買わないかということだけで、だいぶ疲れたし老け込んだことでしょう。これもおそらくそういう特性なんでしょうね、齢40を過ぎてようやく気付きました。

一事が万事この調子。今月だけでも「シャープペンの芯を買う」「消しゴムを買う」「ノートを買う」などの課題がありました。これらは比較的安いものなので、失敗してもリスクは少ないものゆえ、私としては割合に早く結果(買うという行為)までたどり着きましたが、そうは言っても数日から1週間はかかりました。非常に疲れ果てる毎日です。それでも今日は一つの思考を終わらせることが出来たので、明日は無数の思考の内の「-1状態」からスタートできます。これを繰り返していけば、明日は今日よりもラクになっているはず。

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